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南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)
山南王・
承察度 (うふさっと)が築いたという説がある城ですが、
いつ築かれ、南山の勢力が築かれていったのかははっきりしていません。
南山は糸満市大里を拠点とする勢力で、そこを治めていたのは大里按司と呼ばれる按司で、
承察度も何代目かの大里按司です。

三山時代の南山の王城で、島尻大里城、高嶺城ともいいます。
残念ながら、「南山城跡」は世界遺産に登録されていません。
しかし、歴史的には世界遺産に含まれて当然なぐらい重要な城です。

南山は承察度の名で
1380年に中国(明)と朝貢(ちょうこう)・冊封(さっぽう)関係を結びます。
1383、84、85年と続けて進貢し、1385年には明の皇帝より山南王として鍍金の銀印を下賜されています。

その後も、
明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、
明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。

初代大里按司は中山への備えとして、島添大里に弟の
汪英紫 (おうえいじ)にグスクを築かせます。
この汪英紫は承察度の叔父にあたり、次第に勢力を拡大していきます。
汪英紫は1388年には王叔(おうしゅく)汪英紫の名で独自に明への朝貢を行い、
その後も明に使者を送り続け、1397年までに6回の使者を送っています。
汪英紫は敵対する大城グスク(大城按司)を滅ぼし、
佐敷、馬天、知念など南山の東北半分を支配下に治めるようになり、
島添大里按司と称し、本家の大里按司(承察度)を脅かす存在にまでなります。

1398年頃には子の
汪応祖 (おうおうそ:豊見城城主)と本家南山王承察度を攻め、
3代目・承察度を滅ぼして山南王となっています。
この時、承察度は朝鮮に亡命したといわれています。
承察度を追放した汪応祖は、1403年明に使者を送り南山王の後継者となったことを報告し、
明の冊封を受け正式に南山王として認められます。
汪応祖は王位についた1403年から1413年の間に13回も使者を明へ送るなど活発に貿易を行い、
勢力を拡大していきます。
しかしながら汪応祖は、兄の
達勃期 (たぶち)によって1414年に殺されてしまいます。

汪応祖を殺した達勃期は反逆者として配下の按司たちによって殺され、
汪応祖の世子である
他魯毎(たるみー) が1415年に南山王となります。
南山王となった他魯毎は汪応祖のとった貿易推進策を継承し、明との貿易を積極的に行い、
1415年から1429年の在位期間に7回も明に使者を送るなど、南山の勢力拡大を図ります。

しかしながら
他魯毎 は人民の生活をかえりみないなど悪政をふるったと伝えられており、
そのため、南山の人心は離れて行き1429年
尚巴志 の中山軍に滅ぼされることになります。


発掘調査によって、中国製陶磁器やグスク系土器の他、
備前焼きすり鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉などが出土しています。
これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。

南山の東方には水豊富な「カデシガー」、
北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。
城跡は現在一部が糸満市立高嶺中学校、小学校となり、一部が南山神社になっており、城壁が残されています。
また城跡内のガジュマル群落は「沖縄の名木百選」に選ばれています。



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南山城跡(なんざんじょうせき)
糸満市教育委員会 平成十三年三月
南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、
財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。
15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、
中国製陶磁器やグスク系土器の他、
備前(びぜん)焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉(まがたま)などが出土しています。
これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
南山の東方には水豊富な「カデシガー」、
北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。




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三山時代の北山国王 : 3 代 9 4 年 間
在位年
在位年数
怕尼芝
はにじ
1322~ 1392
69年
怕尼芝は2代にわたるとの説もあります。
みん
1392~1396
5年
攀安知
はんあんち
1396~1416
20年
中山(尚巴志)に滅ぼされる
三山時代の中山国王 : 2 代 5 6 年 間
在位年
在位年数
察 度
さっと
1350~1395
46年
武 寧
ぶねい
1396~1405
10年
尚巴志に滅ぼされる
三山時代の南山国王 : 3 代 9 4 年 間
在位年
在位年数
承察度
しょうさっと
~ 1403
汪応祖
おうおうそ
1404~1414
11年
他魯毎
たるみー
1415~1429
15年
中山(尚巴志)に滅ぼされる
第 一 尚 氏 王 統 : 7 代 6 4 年 間
在位年
在位年齢
在位年数
尚思紹
ししょう
1406~1421
16年年
尚巴志の父
尚巴志
はし
1422~1439
51~68才
18年
琉球(三山)統一




南山城跡 | 糸満市

島尻大里(しまじりおおざと)城跡、または、南山(なんざん)城跡
(ファイルが削除または、ファイル名が変更されている可能性があります。)

なぽのホームページ
(ファイルが削除または、ファイル名が変更されている可能性があります。)

南山城(沖縄県糸満市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガ …

南山城は14世紀に山南王・承察度(うふさっと)により築かれた城です。
15世紀前半(1429年)に琉球統一を狙う中山王・尚巴志によって滅ぼされました。
発掘調査によって、中国製陶磁器やグスク系土器の他、
備前焼きすり鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉などが出土しています。
城跡は現在一部が高嶺小学校となり、一部が南山神社になっており、城壁が残されています。
また城跡内のガジュマル群落は「沖縄の名木百選」に選ばれています。


尚巴志の時代の「南山城」を想う - 昔に出会う旅

糸満ロータリーから約2.5Km東にある糸満市字大里の「南山城」に行きました。
「南山城」は、14世紀頃の沖縄では「三山分立時代」といわれ、
北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(大里城)に王が分立していたようです。
この南山城は、別名「島尻大里城」といわれ、琉球王朝の正史「中山世譜」によると、
1429年に尚巴志によって三山が統一される過程で最後に攻略されたといわれる城です。




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残念ながら、「南山城跡」は世界遺産に登録されていません。
しかし、歴史的には世界遺産に含まれて当然なぐらい重要です。

このページでは、“尚巴志(しょうはし)”を中心にして、
琉球(三山)が統一されていく過程を「南山城跡」も含めて紹介していきたいと思います。

※以下を読む前に、『(沖縄の世界遺産)』のページを読むとわかりやすくなります。


1300年代の初め頃になると、按司(あじ=豪族)たちの対立はしだいに集約され、
沖縄本島は、
北山(ほくざん) 〔今帰仁城〕
中山(ちゅうざん) 〔浦添城→首里城〕
南山(なんざん) 〔島尻大里城〕
の小国家が並立する“三山時代”になりました。

三山時代、それぞれの地域には以下の王がいて、しのぎをけずっていました。

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三山 ・1372年、中山の察度(さっと)
・1380年、南山の承察度(しょうさっと)
・1383年、北山の怕尼芝(はにじ)
ともそれぞれが、中国(明)と朝貢(ちょうこう)・冊封(さっぽう)関係を結びます。

◎朝貢とは、中国皇帝を表敬し、忠誠を示す(臣下の礼をとる)ために、
定期的に貢物を献上することです。〔進貢(しんこう)とも言う。〕

◎冊封とは、中国皇帝の名において、領域の支配権を承認することです。
北山の場合は、北山王として承認されることを言います。

中国皇帝の臣下となった引き換えに、中国との貿易(進貢貿易)が許され、
三山の王たちは武力や経済力を強めていきました。


そんな中1400年代になると、南山地域の佐敷から“尚巴志(しょうはし)”が登場します。
琉球を統一していく人物です。

その尚巴志を中心に、三山統一のながれを示すと以下のようになります。

1372年〔誕生〕 :佐敷城で尚巴志誕生
南山地域の小さな城の城主の子として生まれる。
1392年〔21才〕:佐敷按司(城主)となる。
1402年〔31才〕:島添大里城を攻め滅ぼす。
南山地域の半分ほどを支配下におさめる。
1406年〔35才〕:中山王武寧(ぶねい)を滅ぼし、父思紹を中山王とする。
【第一尚氏王統のはじまり】
1416年〔45才〕:北山(今帰仁城)を滅ぼす。
1422年〔51才〕:父思紹の死をうけ、中山王(第一尚氏第2代王)となる。
1429年〔58才〕:南山(島尻大里城)を滅ぼす。【三山(琉球王国)統一】

1429年、尚巴志によって、三山は統一され琉球王国が始まります。

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南山城跡(なんざんじょうせき)
糸満市教育委員会 平成十三年三月
南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、
財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。
15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、
中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前(びぜん)焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉(まがたま)などが出土しています。
これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
南山の東方には水豊富な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。


かつてこの地域は高嶺間切で、古くはしもしましり、島尻大里間切と呼ばれていました。
琉球王国時代、大里に南山城があり沖縄本島南部一帯を支配していた。
また混同を避けるため南山城がある大里を「島尻大里」、
大里城がある大里(現在の南城市大里と与那原町)を「島添大里」と呼ぶことになり、
島尻大里間切は1667年に高嶺間切に改称した(島添大里間切は大里間切)。
高嶺間切は1896年に島尻郡に編入。1908年の島嶼町村制施行で高嶺村となった。
村役場は南山城に近い大里に置かれた。
サトウキビ中心の農業が盛んで、東風平との村境に近い与座には製糖工場があった。
1923年には沖縄県営鉄道糸満線が開通し、村内にも高嶺駅が設置され、
県都那覇や海人(うみんちゅ)の街である糸満とを結んでいた。
沖縄戦では1500人余が犠牲になったが、引き続き村役所を大里におき、村として戦後復興を努めた。
しかし行財政力に乏しかったことから、
財政力の強化と行政運営の合理的・能率的から1961年10月1日に(旧)糸満町・兼城村・三和村と合併し(新)糸満町となり、
高嶺村は消滅した。合併後、村役所は糸満町高嶺支所となったが数年後に廃止され、
庁舎は高嶺農協(のちにJA糸満市高嶺支所→JAおきなわ糸満支店に統合し廃止)の庁舎として使用された。
糸満町は1971年12月1日に市に昇格し糸満市となった。

大里城の築城年および築城者は不明だが、山南王・承察度が中山への備えとして弟・汪英紫に築かせたという説がある。
山南の拠点は南山城(島尻大里城)というのが定説であるが、
三山の1つである山南の拠点としては規模が小さいため、大里城(島添大里城)が山南の拠点であったとする説もある。
汪英紫はその後次第に勢力を広げて1388年より独自に明への朝貢を行い、
1398年頃には3代目・承察度を滅ぼして山南王となっている。
汪英紫は近隣の佐敷按司である尚巴志とは協力関係にあった説がある。
だが、そのおよそ30年後に孫の他魯毎(たるみい)が尚巴志により滅ぼされている。
城跡は首里城拡張の際に石垣を運んだとされ、
更に大里城址公園整備の際にも遺構が破壊されたため明確な城壁はあまり残っていないが、
所々にその名残が残されている。
集落の共同水源であった「包井(チチンガー)」だけは石垣は良く保存されている。

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