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今帰仁城は北山城とも称され、また「山北今帰仁城」ともよばれています。
築城年代については明らかではありませんが、13世紀の頃に築かれたといわれる平山城で、
1322年頃怕尼芝(はにじ)が城主となり、その後攀安知(はんあんち)にいたる
94年間で大修築をうけ、今日の規模に達したようです。

今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極めましたが、
北山 最後の王、 撃安知 lが1416年に 尚巴志 の率いる連合軍によって滅ぼされてしまいます。

その後、首里の王権が北山地方を掌握するために監守制度(1422年~1665年)がしかれ、
首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治されていました。
城内にはその由来を刻んだ「山北今帰仁城監守来歴碑」(1749年建立)が現存します。

1609年、薩摩軍による攻撃によって城は炎上し落城し、
以後は、城は廃城となり、御嶽として信仰の場所となっていました。

今帰仁城跡のある北部地域は大戦中、激戦はなかったものの、
集落は艦砲射撃で全焼、焼け野原になったということです。

戦後は遺構の整備がすすめられ、1972年に国の史跡に指定されました。

2000年12月12日、今帰仁城跡は「琉球王国のグスク及び開連遺産群」のひとつとして
ユネスコの「世界遺産席条約」に基づく世界遺産リストに登録されました。
全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、
このリストに登録されます。

2006年には「日本100名城」に選定されており、
2010年には史跡名称が「今帰仁城跡 附シイナ城跡」に改められています。

城郭は最高所の主郭を中心とした遼郭式で、西側から東側に大隅(うぅしみ)、
大庭(うみやぁ)北殿跡、御内原(うぅちはら)そして本丸と続き、
さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。

この今帰仁城跡は、歴史が古く規模の雄大な遺構がよく残り、
特に外郭の石垣が大きく、屛風形の曲線を描いていて沖縄屈指の名城たる風格を備えています。
この石垣は
「野面積み」 といわれ最も古い造り方と言われています。

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2000年12月12日、今帰仁城跡は「琉球王国のグスク及び開連遺産群」のひとつとして
ユネスコの「世界遺産席条約」に基づく世界遺産リストに登録されました。
全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、
このリストに登録されます。
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今帰仁城跡
かつて琉球に統一王国が樹立する以前の
三山時代 (北山、中山、南山)北山の居城として
「今帰仁城」が築かれ、
沖縄本島北部(やんぼる)の政治、経済、文化の拠点となったグスクである。
今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極めるが、
北山 最後の王、 撃安知 lが1416年に 尚巴志 の率いる連合軍によって滅ぼされてしまう。
その後、監守制度(1422年~1665年)がしかれ首里王府から派遣された監守によって,
北部地域が統治された。

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火跡  今帰仁城跡
昭和47年5月15日
この城は、築城年代については明らかではありませんが、
1322年頃怕尼芝(はにじ)が城主となり、その後攀安知(はんあんち)にいたる
94年間で大修築をうけ、今日の規模に達したようです。
尚巴志によって滅ぼされた1416年直後、
この城には首里の王権が北山地方を掌握するために北山監守が置かれました。
城内にはその由来を刻んだ「山北今帰仁城監守来歴碑」(1749年建立)が現存します。
城郭は最高所の主郭を中心とした遼郭式で、西側から東側に大隅(うぅしみ)、
大庭(うみやぁ)北殿跡、御内原(うぅちはら)そして本丸と続き、
さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。
この今帰仁城跡は、歴史が古く規模の雄大な遺構がよく残り、
特に外郭の石垣が大きく、屛風形の曲線を描いていて沖縄屈指の名城たる風格を備えています。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日





http://nakijinjo.jp/

http://www.odnsym.com/isan/nakijin.html

世界遺産 今帰仁城へ行こう!

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北山国王の居城     沖縄観光チャンネル より

今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は
三山時代 北山国王 の居城で北山の拠城でした。
また、中国や東南アジアとの貿易も盛んで発掘調査により
陶磁器 などが出土しています。
1416年に
中山王 尚巴志(しょうはし) によって三山を統一されてからは1665年まで
琉球王府から派遣された監守の居城だったと伝えられています。
石垣は
「野面積み」 といわれ最も古い造り方と言われています。



今帰仁城の城主は大きく2つに分けられます。初めは山北王(さんほくおう)、次に今帰仁監守(なきじんかんしゅ)です。

山北王は、
怕尼芝(はにじ) 珉(みん) 攀安知(はんあんち) の3代で、1383年から1416年まで。

今帰仁監守は、中山の
尚巴志(しょうはし) の次男 尚忠(しょうちゅう) が1422年から1440年まで。

その後、
尚真王(しょうしんおう) の三男尚韶威(しょうしょうい)が1490年から今帰仁監守となり、
代々世襲して、監守の時代は1665年まで続きました。

怕尼芝(はにじ) の1383年から最後の監守の1665年までは、約230年。
長い期間にわたり城(グスク)が機能していて、城主が支配していたことがうかがえます。

今帰仁監守と は、今帰仁城を、首里が管理するために派遣した役職で、今帰仁王子とも呼ばれました。
今帰仁城跡の主郭に建てられている
「山北今帰仁城監守来歴碑記」 には 監守派遣の理由として、
今帰仁城が首里から遠く、地が険阻で、人も勇猛なので、首里に反乱を起こす恐れがある、と記されています。



今帰仁城跡の歴史

 今帰仁城は北山城とも称され、また「山北今帰仁城」ともよばれている。
13世紀の頃に築かれたといわれる平山城で、明確な年代や誰によって築かれたかその歴史は不明なところが多い。

 今から約600年ごろ前に怕尼芝が城主となってから民、攀安知と三代にわたって城壁を拡充整備されたであろうといわれている。
それ以前については口碑伝説に頼る以外にない。

 口碑伝説によって城主の流れをみると、
天子孫の流れをくむ者が今帰仁世の主(今帰仁城主のこと)となってこの城を築いたといわれている。
5代を経た城主の時に中央で「利勇の乱」がおこり、この時に今帰仁世の主も共に滅んだという。
この系統を「大昔北山」または「前北山」と称しているようである。

 その後、源為朝の子といわれている
舜天王 が琉球の王位につき、彼の孫にあたる者が今帰仁城主に封ぜられてきた。
この系統を「仲昔北山」または「中北山」とよんでいる。
この仲昔北山時代の伝説に伝えられる湧川王子、岡春(丘春とも書く)、
また、本部大主の謀叛や絶世の美女と讃えられた
志慶真乙樽 もこの時代の人々であり、事件である。

 この系統は一族である
怕尼芝 に城地を奪われることとなる。この系統を「今北山」または「後北山」と称されている。
怕尼芝から
攀安知 と三代94年の治世が続いて、攀安知は 尚巴志 に攻められて滅亡した。
この時の城士に本部太原(平原とも書く)が出現するが、この人は先の本部大主とは時代も人物も全くの別 人である。
巷間よくこの二人を混同して語られることがある。(以上村史)

 
怕尼芝 の治世の頃、明国への進貢が行われるようになり、この三代94年の間は最も隆盛を極めていたのではなかろうか。
はじめに記した太祖実録に山北の進貢は
怕尼芝 が六回、民一回、 攀安知 が十一回の進貢の記録があり、
今帰仁城に関する最も古い文献である。

 中山世譜や、琉球国由来記等は明の太祖実録よりはるか後世であり、これらの文献 には尚巴志の北山討伐の模様が記されている。
その他、おもろに20数首余り謡われてい る。

 「山北今帰仁城」の「山北」の呼称は、前に述べた太祖実録に「山北王」とでている。
つまり「山北、中山、山南」と記されているところから後々までこのように呼ばれたのであろう。

 
尚巴志 は北山討伐後、その子弟をこの地に遣わして北山の地、すなわち国頭地方の監守とした。
「北山の地は中山を遠く離れて人民を教化し難い上に、
人々は雄猛で、しかも地形がけわしくいつまた兵乱が起こるかわからないのでこの地に監守をおいて治めさせる」ことにした。
第一尚氏が滅亡して第二尚氏の時代にも同じく監守をおいたが、康熈4年(1665年)に監守を首里にひきあげさせた。
それから84年後の乾隆14年(1749年)に監守制のいきさつや首里にひきあげた様子を石に刻んで立てたの
本丸 跡の 火の神 の祠前に立っている 「山北今帰仁城監守来歴碑記」 である。

 その後の今帰仁城のことについてはあまり知られていません。

 このように今帰仁城跡についての文献は少なく、従って歴史についていろいろと疑問の多いところである。
われわれは史跡として保存しつつ、その活用と歴史の究明にまた力をつくしていきたいものである。


今 帰 仁 城
沖縄では日本で鎌倉時代が終わる頃、中山・北山・南山と三国分立時代に突入するが、
それまでは按司(あじ)と呼ばれる地方の豪族がグスクを築いて勢力を争っていた。

 今帰仁城の築城年代は明らかではないが、13世紀に湧川按司が築城して北山王(ほくざんおう)と称したという。
この北山家は6代続いたが、1322年(元享2年)怕尼芝(はにし)によって滅ぼされ、
怕尼芝は北山王と称し、四代目の攀安知(はんあんち)に至るまで、今帰仁城の大修築を行なった。

 1416年(応永23年)首里城主の中山王
尚巴志 (ちゅうざんおうしょうはし・第一尚氏)が 攀安知 を滅ぼし、
読谷山按司であった
護佐丸 を北山監守として今帰仁城主とした。
1420年(応永27年)頃、護佐丸は中城城を築城して居城を移し、今帰仁城は
尚巴志 の次男 尚忠 が監守として在城、
それ以来、琉球王(第一尚氏)の子弟や重臣が代々北山監守として居城した。

 その後、1470年(文明2年)政変が起きて第二尚氏の王朝となり、
第一代
尚円王 は琉球の北方鎮守のため、重臣を今帰仁城の監守としたが、
第三代
尚真王 の時、その子の尚蔵を北山監守とし、尚蔵の子孫は7代にわたって今帰仁城を居城とした。
 しかし、1609年(慶長14年)薩摩島津氏の侵攻で琉球王朝は島津氏の支配化に入り、
1665年(寛文5年)第二尚氏の北山監守は首里城に帰り、今帰仁城は廃城となった。
 

伝説によれば、その昔、天孫氏が琉球の王となって、北の要として今帰仁城を築いたという。
強弓で知られる鎮西八郎源為朝の子が九州から琉球に渡り、
天孫氏を滅ぼして
舜天王 と名乗り、異母弟の大舜を今帰仁城主にしたというが、これもあくまで伝説である。
 悲運の武将源義経が北海道から蒙古に渡りジンギスカンとなったという伝説と同じく、
英雄として人気の高かった源為朝の名を残すために、おそらく日本人が創った話であろう。


今帰仁城は志慶真(しけま)川西岸の標高100mの断崖上に築かれ、大小8つの郭からなる実戦的で巨大な城郭であった。

 城郭内の最高所には正殿、北西下の
大庭(うーみや) と呼ばれるところには北殿と南殿が築かれ、
その北に
御内原(うーちばる) 大隅(うーしみ) 、正殿の東側には 志慶真郭 を配し、
各郭は
中城城 と同じく、曲線の美しい城壁をめぐらせていた。

 今帰仁城跡内には正殿跡や北殿跡をはじめ各所に礎石が残り、
三国分立時代の北山王の居城跡として貴重な遺跡であるため、
国の史跡に指定されているとともに、世界文化遺産にも登録された。

 昭和37年に今帰仁城の正門であった
平郎門 が復元された。
城壁門の両側には門番が見張りするための覗き穴があり、自然石を利用した石門で、古城の風格を漂わせている。

 平郎門を通り、まっすぐに石段を登って行くと大庭に至る。
大庭は様々な儀式が執り行われた神聖な場所であった。
御内原 は女官たちの居館跡と伝えられ、
大隅は城内で一番広い郭で、馬の骨や歯が大量に出土していることから、練兵場であったと考えられている。

 今帰仁城跡には一部に残っていた琉球石灰岩の城壁が修復されているが、
最も原形をとどめているのは
志慶真郭 の城壁で、
美しい曲線を描いた石積みは今帰仁城跡の最大の見どころとなっている。

 城跡内の最高所の主郭には今帰仁監守来歴碑が建ち、東シナ海の眺望が素晴らしい。
良く晴れた日には
伊是名島 から与論島まで見渡せる。
 今帰仁村歴史文化センターで歴史を学んでから今帰仁城跡を見学すれば、より一層思い出の深いものになるであろう。

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