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中城城 なかぐすくじょう )は、 沖縄県中頭郡北中城村 中城村 に存在した 日本の城
15世紀 琉球王国 尚泰久王 代、 護佐丸 グスク )として知られる。
城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。

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中城城 - Wikipedia より

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。
15世紀の琉球王国・
尚泰久王 代、 護佐丸 のグスク(城)として知られる。
城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。

概要
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、
中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、
グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。
石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。


歴史・沿革
創始は明らかではないが、
14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり
南の郭 西の郭 一の郭 二の郭 の主要部分を築き上げ、
1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、
三の郭 北の郭 が増築され現在の形が完成したようだ。

増築されたその部分の城壁は「
相方積み 」という高度な技法で積み上げられている。
また、
裏門 以外に 一の郭の2つの城門 がアーチ式門となっていることから、
その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。

1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た
阿麻和利 策略 (首里王府の策略という見方もある)に攻められ
自害して滅びる。
その後、「中城王子の居城」→島津侵入(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は
「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。

また、1609年以後の薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、
薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。

日本に開国を迫ったアメリカの
マシュー・ペリー提督 が1853年5月に沖縄本島を訪れ、
ここも訪ねた彼の一行は城を見て、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、
この城に関する詳細な報告文を書いている。

1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、
中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。

1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。
その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(
中城高原ホテル を参照)。
1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。
指定面積は110,473平方メートル(約33,400坪)でそのうち14,473平方メートル(約4,300坪)が城郭の面積。
現在は補修・復元工事がすすめられている。
2000年(平成12年)11月、首里城跡などとともに、
琉球王国のグスク及び関連遺産群 としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(99番)に選定された。
2013年(平成24年)「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」(沖縄県)に
ツワブキ の名所として選ばれる。

構造

[image] 中城城要部のステレオ空中写真(1977年)。写真下方が北。 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成


中城城は連郭式の山城である。六つの郭で構成されている。
城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、
石垣 には 野面積み (南の郭)、 布積み (豆腐積み、一の郭、二の郭)、
あいかた積み (亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)が見られ、
1853年に来島したペリー提督も『要塞の資材は、石灰石であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。
石は…非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いていないが、
その工事の耐久性を損なうようにも思わなかった』(日本遠征記)と記し、その石垣のすばらしさを讃えている。
一の郭  : 城内で最も広い郭。 正殿 (せいでん)や護佐丸が宴を催した 観月台 がある。後に間切番所が置かれ、
     廃藩置県後は中城村役場に使用されていたが沖縄戦で消失した。
西の郭  : 兵馬の訓練をしたといわれる。長さが東西に120mある。
南の郭  : 複数の拝所が集中する古い城郭の一つ。
二の郭  : 布積みの城壁。
三の郭  : 新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(あいかた積み)によって積まれている。
北の郭  : 護佐丸が井戸を取り込み増築したと見られる。
カンジャーガマ  : 鍛冶屋跡。目的は城のためか集落のためなのか不明。
井戸  : 城郭内に水を確保していることがこの城の特徴でもある。
護佐丸の墓  : 城郭の200mほど東には護佐丸の墓がある。


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中城城二の郭


沖縄の世界遺産 中城城跡 公式ホームページ

【登城記】中城城(日本100名城 No.99) ? 其ノ参 | お城部

癒しの琉球古城と拝所と碑文の写真集



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一の郭正殿跡の調査概要
現在地は中城グスクの中心にあり、
先中城按司や護佐丸などの城主が政を執り行っていた建物が建っていたと考えられる場所です。
護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に番所が置かれ、
明治期には琉球の日本併合とともに番所は役場と名を改め、
1945年4月に沖縄戦で焼失するまで同地は中城の行政の中心地として長い期間使用されていました。
この場所に建っていた建物の記録としては、番所役場についての記録が僅かに残っているだげで、
それ以前のものについては図面や文献等は残っておらず、どのような建物が建っていたのかは分かっていませんでした。 
〔※沖縄のグスクには、本土のお城にあるような天守閣は存在しません。〕
その謎を解明するため中城村教育委員会では、
平成21~24年度の期間(調査は毎年3~4ケ月間実施)に約480㎡の発掘調査を実施しました。
調査の結果、石積みで城郭が築かれるより前の13世紀後半から役場のあった近代にかけての建物の礎石や柱穴、
各種石組遺構、埋甕など700基程の遺構を検出することができました。
しかし、残念ながら基壇築造後に何度か造成が行われた上に、
建物もかなりの回数建て替えられたため各遺構が複雑に入り組んでおり、
現場では各時期の建物の構造や間取りを明確に把握する事はほとんどできませんでした。
今後はこれら遺構から出土した遺物や測量図等を基に各遺構を整理していく予定です。

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