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糸数城跡(いとかずじょうあと)は、現在の糸数村落南側の断崖上、
標高180mの広大なサナン台地の西端に築かれた古城で、
本島南部地方に点在する城跡の中でも最大規模のものです。
築城年代は不明ですが、出土遺物から13世紀まで遡ることができ、
玉城按司が次男を
大城 按司に、三男を糸数按司に任したという伝説がある事から、
おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年に石積が整備されて、
玉城(たまぐすく)の西の守り城として使われたとおもわれます。

城壁は
野面積み を基調としながら 切石積み の部分で補強し、「アザナ」と呼ばれる物見台が特徴的です。
南北の物見台は高さ6㍍もあり、この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。
古いままの状態で残る城壁は、石垣の建造過程を知る上でも貴重な存在で、
琉球石灰岩の断崖を利用して築かれた城壁がくねくねと続き、当時の建設技術の高さを知ることができます。
北東の物見台からは、眼下に奥武島(おうじま)を望むことができます。
構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。
城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。
また、「
琉球国由来記 」にも記載された[糸数城之殿」も城内にあります。

伝承によると、城を改修・増築中に、上間按司に急襲され落城したとの事です。
上間按司は「中山尚巴志の大将として、三山統一に向けて、
南山の有力な按司であり、重要な拠点だった糸数城、玉城城を攻め滅ぼしたということになります。
その後は、糸数親雲上(ペーチン、下田門中の先祖)が糸数グスクの監守として派遣されたそうです。

第二次世界大戦の沖縄戦によって一部は破壊されてしまいましたが、
南部最大級のグスクと言われるだけあって城壁が比較的きれいに保存されています。
特に石垣の積み方や遺構の大部分が残されており、中世時代のグスクを今に伝える貴重な遺跡です。


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史跡 糸数城跡
昭和47年5月15日 国指定
この城跡は、現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、
築城年代は不明ですが、玉城按司が二男を
大城 按司に、三男を糸数按司に任じたという伝説があり、
おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年の築城であろうと思われています。
城壁は
野面積み 切石積み と両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、
この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。
構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。
城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。
また、「琉球国由来記」にも記載された[糸数城之殿」も城内の一角にあります。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日

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糸数城跡|三山分立時代の初期14世紀前年の築城 より

糸数城跡(いとかずじょうあと)は、現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、
築城年代は不明ですが、
玉城 按司が次男を 大城 按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、
おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年の築城であろうと思われています。
城壁は
野面積み 切石積み と両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、
この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。
構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。
城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。
また、「琉球国由来記」にも記載された[糸数城之殿」も城内にあります。


糸数グスク陥落にまつわる二つのお話

     
糸数グスク陥落にまつわる二つのお話(1)

     
糸数グスク陥落にまつわる二つのお話(2)

糸数城跡 - 沖縄 観光 たびカタログ より

古いままの状態で残る城壁は、石垣の建造過程を知る上でも貴重な存在だ

本島南部地方に点在する城跡の中でも最大規模を誇る。
玉城城跡(たまぐすくじょうせき)の西の守り城として築かれたといわれ、標高180mの広大な台地に建造された。
琉球石灰岩の断崖を利用して築かれた城壁がくねくねと続き、当時の建設技術の高さを知ることができる。
北東の物見台からは、眼下に奥武島(おうじま)を望むことができる。



糸数城、糸数グスク

糸数城 - JAPAN WEB MAGAZINE | 日本の魅力再発見 日本を … より

沖縄本島南部の南城市糸数にある糸数城(いとかずぐすく・いとかずじょう)は、
琉球の戦国時代(
中山国 (浦添王朝)、 南山 国、 北山国 の三国が分立して覇を争っていた三山分立時代)の初期
(14世紀前半頃)に築城されたと推測されている城だ。
西側の守りとして、この地を任された
玉城 按司の三男・糸数按司が築城したとされている。
伝承では、その後、城を改修・増築中に、
上間按司 に急襲され落城。
野面積み 切石積み で造られた高さ6メートルに及ぶ美しくも強固な城壁や城門が今も残る。
城壁の上からは太平洋と東シナ海を望むことができる。国の指定史跡。


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尚巴志活用マスタープラン(沖縄県南城市):第9話 糸数城跡 より

糸数グスクは玉城按司の三男(注①)の居城であったとされ、
東側に門(注②)、西側に正殿、北にそれぞれアザナ(注③)を配する造りになっています。

出土遺物から13世紀(注④)まで遡ることがわかっていますが、
石積が整備されたのは14世紀末頃(注⑤)であると考えられています。
また、石積は当初野面積みであったのすが、ある時期に切石を用いた石積へ改築されています。

糸数按司の右腕に
比嘉ウチョー という人物がいたそうです。
一人で巨石を持ち上げ橋(注⑥)をかけてしまうほど怪力だったようですが、
彼が国頭へ改築の為の資材を買いに行っいる間に上間按司(注⑦)が攻め落としたということです。
城壁の切石(注⑧)が一部にとどまっていることは改築途中だったことを物語っています。

さて、糸数グスクの発掘調査で稲福遺跡と共通する土器(注⑨)が出土しています。
これは13世紀頃のもので、人やモノの交流があった可能性を表しています。

また、大城グスクと糸数グスクが石築になったのは同じ時期(注⑩)ですので、
この頃社会が緊張状態にあったのではないかと推測されます。
この時期に鉄(注⑪)は貴重な資源から消耗品になっていきます。

注①玉城按司の三男・・・『古琉球三山由来記集』の系図では次男と表記されるが詳細は不明
尚、四男は船越按司という伝承がある(船越按司は糸数按司の長男との説もある)

注②門・・・城郭用語で虎口(こぐち)という
現在東側に開いた切石の櫓門は改築後のもので、その前はより南のアザナに近い突出した部分にかぎ状門があったと云われている

注③アザナ・・・物見台のこと
糸数城跡では南北西にアザナが確認されており北のアザナは海抜180m以上を測る

注④13世紀の遺物・・・中国産陶磁器が出土しており青磁の櫛描文碗、劃花文碗・皿、鎬蓮弁文碗や白磁の口禿碗・皿などが出土している

注⑤14世紀の遺物・・・中国産青磁の雷文帯碗や無鎬蓮弁文碗を主体とする層上に石積が積まれている

注⑥橋・・・西側に裏門がありその外部にかかっている

注⑦上間按司・・・真和志間切を管轄していた中山軍(第一尚氏)の大名という見方もある

注⑧切石の範囲・・・城門及び城門から北のアザナにかけて、また南アザナは表面が切石の布積で覆われており中には野面積の旧アザナが残っている

注⑨土器・・・稲福タイプを呼ばれ糸数グスクでは鉢型Ⅱ類土器と位置付けられる疑似肥厚タイプの土器

注⑩石築の時期・・・14世紀終末から15世紀にかけて大城グスクでは野面の石積と共に礎石立ちの正殿が整備されたと考えられる

注⑪鉄・・・屋嘉部交差点から糸数へ登る坂はカンジャーヤービラと呼ばれ、
名前の通り登りきった場所に鍛冶屋があったというが時代は不明である
鉄は刀子のような日常的に使用するものから釘や鉄鏃のような消耗品になっていった

その他・・・糸数グスク周辺には糸数按司がグスク普請時に住んでいたとされる根石グスクや旧集落のサナン村、蔵屋敷跡などがある

またグスクから抜ける旧道も多く、ダキドゥンビラは頂上に旗立石がある
城壁美に優れアザナや南の虎口跡と呼ばれる箇所は朝鮮半島の城に見られる馬面とそっくりな造りをしている

グスク周辺では石器やくびれ平底土器が見つかっており以前から人々の生活があった可能性もある
発掘調査では炭化米や麦も出土している

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