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沖縄の王墓、按司墓、拝所



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沖縄県南城市 ・ 大城按司の妻 「 ウナザラの墓 」

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ユインチホテル南城から稲福方面に200mほど行くと、
右手に大城按司のポンドゥ御墓がある。
その前の道路を隔てた場所に 「 ウナザラの墓 」 への案内板と入口がある。

「 ウナザラの墓 」 は、大城按司の妻の墓である。
「 ウツーヌ按司 」 の古墓群から南へ進んだ西側崖下に所在する墓で、
琉球石灰岩の崖の岩陰を利用した掘り込み墓である。

今でも拝み ( ウガミ ) 人が紙コップに酒を入れて拝んだ跡があった。




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沖縄県大宜味村 「 根謝銘按司 ( ねじゃめあじ ) の墓 」

根謝銘グスクの下にある按司墓と彫られた墓であるが、
伝承ではグスク内の中城御嶽にあった骨を集めた墓だといわれており、
後から按司の骨も納められた合祀墓の可能性もあるが、定かではない。




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沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 渡嘉敷三良 ( とかしきさんらー ) の墓 」

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那覇の国際通りと美栄橋との間の緑ヶ丘公園の中に渡嘉敷三良の墓がある。

この緑ヶ丘公園がある場所は、周囲の地形を見ると王朝以前は、
ガーブ川が作る谷にそびえていた山であったと思われる。
また、十貫瀬 ( 今の久茂地川の流域辺り ) の海岸線を形作っていた断崖で、
沖縄戦で地形が多少変わっていると思われるが、
その山の頂上の平坦地が今の緑ヶ丘公園だと思われる。
その公園内の一際高い丘陵にあるのが渡嘉敷三良の墓である。

渡嘉敷三良は、久米36姓と呼ばれる明からの帰化人で、16世紀の生まれである。
琉球に産業を興した久米人の中で、彼は瓦職人であった。
彼の偉業は、琉球の地に瓦産業を興したことにある。
その技術は子孫に受け継がれ、四世の安次嶺ペーチンは、
当時板葺き屋根であった首里城正殿を瓦葺きに変えた人物だと言う。

当時は内地風の黒い瓦で、赤瓦登場は江戸時代まで待たねばならない。
渡嘉敷の墓は、1600年以前に造られたことはハッキリしているらしい。
400年以上前の墓にしては、豪奢なつくりで彼の人物像が伺い知れる。

渡嘉敷の墓の周囲はきれいに整備されていて公園と一体化しているため、
墓というよりも公園内の丘陵と言う感が強く、
その墓壁には沖縄戦での銃弾の痕跡がいくつも遺っていた。




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沖縄県那覇市 ・ やちむんヌ人 「 張献功 ( ちょうけんこう ) の墓 」

張献功は、?~1638(?~尚豊18) 沖縄に帰化した朝鮮陶工である。
和名は仲地麗伸 ( なかちれいしん ) といい、
文禄・慶長の役(1592、97年)で朝鮮から連れ帰った陶工の一人である。


那覇の市街地にある 「 ナイクブ古墓 」 の発掘調査をしている監督に
渡嘉敷三良と張献功の墓の場所を訊ねると、快く教えてくれた。
渡嘉敷三良の墓は公園の中にあり、大きくて立派なものだったが、
それに比べて張献功の墓は小さく、青いビニールシートの車庫の裏の草むらにあり、
場所を聞かなければ見落してしまいそうな墓であった。

そんな張献功の墓は、墓碑に 「 張氏元祖一六仲地麗進 」 と刻まれている。
一六とは、おそらく張献功のことであろう。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、南原市から18姓43人陶工が
薩摩の島津義弘軍に連れて来られ、
琉球王朝の依頼でそのうち3人の陶工が琉球へ派遣される。
「 一六、安一官、安三官 」 のうち2人は去ったが、
一六だけは残り、湧田窯の創始者となる。
中国、アジアの影響、朝鮮の上焼きという釉薬をかけた焼物、
そうした中で琉球独特の焼物が出来上がっていく。
後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行くのであった。

現在も張献功の子孫の方々が韓国方面に向かって座り、
毎年4月には清明祭を行っている。
張献功の関係者の1人は恩納村仲泊に住むが、その子孫は絶えている。
300年前の話であるが、今も仲泊の島袋家には拝所があり、ずっと祀られている。

故郷の韓国に帰ること無く、異国の地で陶芸に励んだ張献功の草に覆われた小さな墓を見た時、
拝み人がいないことに胸が痛んだ。
こうして書いて彼のことを、彼の遺したものを忘れないことが供養だと思う。





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沖縄県南城市 「 大城按司のポンドゥ御墓 」

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南城市佐敷の山上にある大城按司のポンドウ御墓は、
沖縄の王墓や按司墓の中でも、
もっとも独特な形をした墓である。
この墓には今回を含めて、五度目の訪問である。
馬天ノロの墓や平仲大主の墓が見つからなかったので、
ポンドウ御墓に立ち寄ってみたが、何度見ても素晴らしい墓である。

大城按司は14世紀の人で、大城グスクの城主であったと伝えられている。
当初大城按司の亡骸は小石を円く積み上げて建てられた塚に葬られていたが、
地崩れのため幾度か改築され、1892年には現在地に移築されたものである。
上部が塚を思わせる円筒型をしていることから、
俗にボントゥ御墓とも呼ばれている。

この墓は、亀甲墓や破風墓、巨石墓などの沖縄の墓の形式のいずれにも属さない、
独特な形式をしている。






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沖縄県名護市屋我地島 「 オランダ墓 」

名護市屋我地島運天原の北西の岬にオランダ墓と呼ばれる墓があります。
運天原の船揚場から北に約300m波打際を歩くとセメントの階段があり、
そこを上がるとオランダ墓です。
オランダ ( ウランダ- ) とは、近世において西洋人を指した表現で、
葬られているのはオランダ人ではなくフランス人です。
墓は、大岩の下に北西に向けて亀甲墓風に造られ、
二基の墓碑 ( 各縦75㎝、横51㎝、厚さ8㎝ ) が置かれている。
※ ( 現在置かれているのはレプリカ ) 。

1946年6月6日、フランスの旗艦クレオパト-ル号、サビ-ヌ号、
ビクト-リアス号の3隻は運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。
7月5日まで碇泊しましたが交渉を拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。
その約1ヶ月の間にこの墓に眠る 「 方済各加略 」 と 「 亞各伯 」 は病気で亡くなり、
ここに手厚く葬られたのです。
「 方済各加略 」 はフランソワシャルル ( フランチェスコ・カール ) 、
「 亞各伯 」 はジャーク ( ヤコブ ) と読み、
当時の乗組員名簿からフランソワ・シャルル・ギタール ( 一等助銃工 ) と
ジャーク・シャリュス ( 二等水夫・料理人 ) の二人だということが分かっています。

墓碑は、ニ-ビ ( 砂岩 ) に立派な様式と文字で刻まれていて、
恐らく王府が関わった仕事ではないかと思われます。
この墓の管理は、間切時代には今帰仁間切の運天が行なっていましたが、
今帰仁村の役場が仲宗根に移ったので、
屋我地運天原の人々が管理することになりました。


碑文
 右「 大彿朗西国戦船彿肋加特格肋阿巴特爾 老将貴大爾聖号方済各
   加略之墓 救世一千八百四十六年儒安月二十日病故 」

 左「 大彿朗西国戦船歌爾勿特未客多利阿斯 老将撒虜聖号亞各伯之
   墓救世一千八百四十六年儒安月十一日病故 」

大沸朗西国=大フランス国、彿肋加特=フレガット ( フリゲート )、
格肋阿巴特爾=クレオパトール、歌爾勿特=コルベット、
未客多利阿斯=ビクトーリアス、老将=意味は不明、
貴大爾=ギタール ( キタール? ) 、撒虜=シャリュス ( サーリョ? ) 、
聖号=洗礼名、儒安=JUNE ( 6月 )









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沖縄県与那原町 「 聞声大君の墓 ・ 三津武嶽 ( みちんだき )」

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与那原にある 「 沖縄カントリークラブ 」 の南端の丘上、
鉄塔付近の岩下に聞得大君 ( きこえおおぎみ ) の墓がある。

聞得大君が琉球発祥の地、久高島に参詣される途中に強い逆風に遭い、
薩摩の国に漂流し、一命をとりとめることが出来たが、
琉球は日照りが続き、これは最高神女が他国に居る所為だと、神女たちはささやき合った。
君真物のお告げで、薩摩に居るからお迎えせよという。
そこで馬天ヌルを船頭に女ばかりで船を出した。
無事に聞得大君を乗せて帰還するが、
その時、既に彼の地で懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、
与那原海岸の御殿山に庵を結んで一生を終えた。

三津武嶽は、聞得大君が死後、葬られたと言われる場所であると遺老説伝の伝わる所で、
「 友盛ノ嶽御イベ 」 ともいわれている。
現在は子宝の神として子宝を望む人のお参りが絶えない。

聞得大君は、NHKの 「 テンペスト 」 の中で高岡早紀が演じているので、
テレビを見た人は大方の人物像が解ると思うが、聞得大君について書いておきたい。


聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とは、琉球神道における最高神女(ノロ)である。

「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は君の最高者という意味であるという説がある。
琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。
宗教上の固有名詞となる神名は 「 しませんこ あけしの 」 「 てだしろ 」 である。
聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、
国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。
琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。
また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

就任儀礼

沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において就任の儀式である 「 御新下り 」 が行われた。
「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである聖婚 ( 神婚 ) 儀礼と考えられている。
宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
就任後は、原則として生涯職である。

由来

琉球王国では、尚真王代に中央集権化と祭政一致が行われた。
この際に各地に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、
その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。
ちなみにそれまでの琉球王国における祝女の最高位は佐司笠 ( さすかさ / または 「 差笠 」 と表記 )
職と国頭地方由来の阿応理屋恵(あおりやへ / または「煽りやへ」と表記 / 琉球方言読み:オーレー)職であり、
これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。

その神名 「 しませんこ あけしの 」 は勢理客にあった既存の祝女職と同じであることが判明しており、
聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、
その詳細については不明な点がある。
また 「 てだしろ ( =太陽の依代 ) 」 はそれまで馬天祝女の神名であったが、
聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。
盛衰

尚真王の妹である音智殿茂金(神名、月清)が就任したのが最初である。
王国崩壊後もこの役職は存続し、戦時中の1944年に18代、
思戸金翁主が就任したのを最後に不詳年に廃職されている。


聞得大君の一覧

初代:月清(生没不明) 就任:尚真王代
二代:梅南(不明 - 1577年) 就任:尚元王代
三代:梅岳(不明 - 1605年) 就任:1577年
四代:月嶺(1584年 - 1653年) 就任:1605年
五代:円心(1617年 - 1677年) 就任:1653年
六代:月心(1645年 - 1703年) 就任:1677年
七代:義雲(1664年 - 1723年) 就任:1703年
八代:坤宏(1680年 - 1765年) 就任:1723年
九代:仁室(1705年 - 1779年) 就任:1766年
十代:寛室(1719年 - 1784年) 就任:1780年
十一代:順成(1721年 - 1789年) 就任:1784年
十二代:徳沢(1762年 - 1795年) 就任:1789年
十三代:法雲(1765年 - 1834年) 就任:1795年
十四代:仙徳(1785年 - 1869年) 就任:1834年
十五代:仲井間翁主(1817年 - 不明) 就任:1870年
十六代:安里翁主(1825年 - 1909年) 就任:明治年間
十七代:安室翁主(1874年 - 1944年) 就任:大正年間
十八代:思戸金翁主(1887年 - 不明) 就任:1944年。戦後廃職

(出典:「歴史・伝説にみる沖縄女性」比嘉朝進著、那覇出版社)










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沖縄県今帰仁村 「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓 」

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「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主之墓 」 と書かれた墓石





今帰仁村の今泊集落を流れる志慶真川の近くに
天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓がある。
ここは志慶真乙樽の墓の手前になるが、
墓には、比嘉家の墓の墓石もあり、門中であった可能性もあるが、
場所が湧川ではないのが腑に落ちないところである。

「 天孫子英祖王の二男が何故ここに? 」 って言うのが正直なところであるが、
津屋口墓のことも含めて、
一族からすれば離れ墓にしなければならない理由があったのだろう。

もともと今帰仁村湧川に按司道 ( あじみち ) があり、
そこにカー ( 湧泉 ) 跡がある。
池の側に6基の香炉が置かれ、按司道と香炉、そしてカーなど、
どのような関係にあるのか興味深い。

付近の様子を述べると、すぐ近くに新里家がある。
それと湧川の村の創設は1738年である。
そして寄留士族が過半数を占めている。
また、豊年祭の時、メンビャの広場で棒と路次楽と奉納踊りが行われる。
そこでの演舞が終わると、香炉のあるカーの側(按司道)を通り、獅子小屋へ向かう。

これまでの香炉の調査は按司が薩州や江戸立など上国の時、
随行していった奉公人が村(ムラ)の御嶽(ウタキ)のイベや
遥拝場所に寄進する例が散見できる。

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