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この「魂魄の塔」は、沖縄県で最初に建立された慰霊碑で、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」のルーツでもあります。

周囲を石垣で固めた円形の塔には、
沖縄戦で犠牲になった3万5千人の犠牲者が、住民、軍人、敵味方の区別なくまつられています。

戦後真和志村民は食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められました。
しかしこの一帯は多くの 軍人、住民の遺骨がそのままの状態で放置されていました。
住民が米軍に遺骨収集作業を要請しても、反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれ、許可されませんでした。
しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てきて、作業が進まないために、
1946年 2月23日になってようやく遺骨の収集が許可されました。

アメリカ兵を含む全ての犠牲者の遺骨は米須原の南側にうず高く積み上げられました。

大きな穴が掘られ、その中に収められましたが、それでも収まりきれず、積み上げられ、
一つの大きな骨の山が築かれました。

村長は米軍へ資材の提供を申し入れ、セメントと鉄筋代用の寝台の枠などを譲り受け、
周辺から石灰岩を拾い積み上げ骨塚が完成しました。
骨塚は魂魄の塔と名付けられました。「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味です。

「魂魄の塔」に眠る遺骨はすべて身元不明者です。
摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての、都道府県の慰霊碑がありますが、
「沖縄県の碑」は存在しません。
あえてあげるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑といえるかもしれません。
沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっています。

復帰後の1979年2月、
「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されました。
現在、「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残されていません。

長年「魂魄の塔」には碑文が設置されいませんでしたが、
1995年、沖縄戦50回忌の年に遺族連合会によって建立されました。
その碑文には「無名戦士の塔」となっています。
しかし、そこに眠る魂の多くは一般住民であり、その碑文からは沖縄住民の犠牲が見えにくくなっています。

あの惨禍を蒙った直後の1946年に、住民、軍人、敵味方の区別なく、
アメリカ兵を含む全ての犠牲者を祀ったというところに、
沖縄の人々の心の寛さと、平和を重んじる精神がうかがえます。


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魂魄の塔
 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、二十万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和二十一年一月二十三日、九死に一生を得た真和志村民は、
米軍によって当地に集結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、
一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛哭した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、
夫人と共に村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
 そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我二万余柱を奉じて納骨堂を造り、
同年二月二十七日、金城村長は之を魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に金城御夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、
同年四月五日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第一高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、
自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城御夫妻は、同年四月九日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立したのである。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、
戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では方々に慰霊塔が建つやうになったが、
思へば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
東京大学名誉教授 宇野精一

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魂魄の塔 | 那覇市 Naha City - 那覇市 | 『平和・こども・未来 …
那覇市HPより

戦後真和志村民は食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。
しかしこの一帯は多くの 軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所だった。
遺骨がそのままの状態で放置されていた。
住民は米軍に遺骨収集作業を要請したが、
それが反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれた米軍は 許可しなかった。
しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てくるため、作業が進まず、1946年 2月23日にようやく許可された。

遺骨は一箇所に集められ、大きな穴が掘られ、その中に収められた。
それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれた。
周囲から石をかき集め、 納骨堂が完成し、魂魄の塔と名付けられた。
「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味である。

摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての、都道府県の慰霊碑がある。
しかし唯一「沖縄県の碑」は存在しない。
あえてあげるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑といえるかもしれない。

住民、軍人、米軍韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が
軍民、人種を問わず葬られた、沖縄最大の塔である。
これが戦後もっとも早く、 住民の手で作られ、平和への想いを込めた塔として、
他府県の慰霊碑とは多少異質である。

  勝手ながら記載の全文を貼らせて戴きました。


魂魄の塔 - SANNET ホームページ[個人サイト倶楽部]

この「魂魄の塔」は、沖縄県で最初に建立された慰霊碑で、「ひめゆりの塔」や「健児の塔」のルーツでもあります。
あの惨禍を蒙った直後の1946年に、住民、軍人、敵味方の区別なく、
アメリカ兵を含む全ての犠牲者を祀ったというところに、
沖縄の人々の心の寛さと、平和を重んじる精神がうかがえます。
この精神は、1995年に摩文仁の丘に建てられた「平和の礎」にも受け継がれています。


魂魄の塔(糸満市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 ...- NHK 沖縄放 …

糸満市米須地区に、戦後沖縄で最初に建てられた慰霊塔「魂魄の塔」があります。
周囲を石垣で固めた円形の塔には、沖縄戦で犠牲になった住民など、3万5千人がまつられています。
戦後、放置されたままの遺骨の収集が自発的に始まり、
拾った遺骨は、今の魂魄の塔がある場所まで運ばれました。
およそ500人の遺骨が納められた昭和21年2月27日、魂魄の塔と名付けられました。
その後も遺骨収集は続き、本島南部の各地から3万5千人の遺骨が納められました。

遺骨の多くは、昭和54年、摩文仁にある国立沖縄戦没者墓苑に移されました。
しかし、親族がどこで戦死したか分からない遺族が、今も魂魄の塔を訪れています。


魂魄之塔 - じゃらんnet

糸満市米須部落の南方300mの海岸よりにある。
ここは沖縄戦最後の激戦区であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場が無く、
陸海空からの激しい攻撃を受けて倒れた者が数多い。
敗戦後、米須は真和志村民が移動収容されたところであった。
この旧真和志村民が米軍の許可を得、遺骨収集班を結成して
道路や畑、丘や森に散っていた遺骨を集め納骨堂を完成して祀ったのがこの魂魄の塔である。


魂魄の塔 - たむたむ

摩文仁やこの塔がある米須を中心に、沖縄県を除く全国46都道府県の慰霊碑があるが、
「沖縄県の碑」は存在しない。
他府県の慰霊碑とは異質であるが、しいて言うならば、この塔が沖縄県の慰霊碑である。

「華やかとさえ思える各県の慰霊の塔や国立墓苑に比べ(魂魄の塔は)質素で、
それは沖縄の固有の文化をも感じさせる」と1989年6月9日付沖縄タイムズは記している。


TEMP - 月桃の花

1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は北と南に分かれて戦闘を展開していきました。
米軍は日本軍との交戦を続けながら、生き残った住民を保護し難民収容所へ入れていきました。
保護された住民は自由に難民収容所から出ることも許されませんでした。
米軍は住民を難民収容所へ囲ったまま「白地図に線を引くように」米軍基地建設を進めていきました。
その間、住民たちは家族の生死・行方も不明なまま、
あちこちの難民収容所を米軍によって転々と移動させられました。

1946年1月、真壁村(現糸満市)米須に、真和志村(現那覇市おもろ街)の住民4300人が移動してきました。

家族・財産・食糧・衣服などすべてを失った村民は、
戦後の破壊し尽くされた土地で、まず食料の生産にあたらなければなりませんでした。
しかしそこには、まだ頭髪や皮膚が付着したままの遺骨が散乱していました。
村民はまだ米軍の管理下にあって、遺骨収拾は許されていませんでした。
当時の村長金城和信さんは米軍へ遺骨収拾の許可を求めました。
2月23日、米軍から許可が下り、村民は遺骨収拾団を組み、さっそく収骨にかかりました。
拾われた遺骨は米須原の南側にうず高く積み上げられました。
村長は米軍へ資材の提供を申し入れ、セメントと鉄筋代用の寝台の枠などを譲り受けました。
周辺から石灰岩を拾い積み上げ骨塚が作られました。
住民の手によって建立されたその慰霊碑は「魂魄の塔」と名づけられました。
その後も遺骨収拾は続き、「魂魄の塔」には3万5千体が納骨されていきました。

「魂魄の塔」に眠る遺骨はすべて身元不明者です。
沖縄戦で身内を失った者にとって、「魂魄の塔」は家族の墓と同じ意味をもっています。

ところが、復帰後の1979年2月、
「摩文仁の丘」に国立戦没者墓苑が建立され、遺骨の殆どがそこへ移されてしまいました。
現在、「魂魄の塔」には、わずかな遺骨しか残されていません。

それでも「魂魄の塔」に花を手向け、お酒やごちそうを供え、亡くなった家族の冥福を祈る遺族の姿があります。
6月23日「慰霊の日」には遺族をはじめ関係者が絶え間なく訪れます。
近年は「慰霊の日」の混雑を避けその前後に訪れる人々もいます。

長年「魂魄の塔」には碑文が設置されいませんでしたが、
1995年、沖縄戦50回忌の年に遺族連合会によって建立されました。
その碑文には「無名戦士の塔」となっています。
しかし、そこに眠る魂の多くは一般住民であり、その碑文からは沖縄住民の犠牲が見えにくくなっています。

【参考文献】 『還らぬ人とともに』若夏社編 沖縄県遺族連合会



糸数アブチラガマを中心にした戦闘経過概要より

昭和23年頃
部落内にあった遺骨を収集し、アブチラガマ出口の慰霊碑の所に集めた。

アプチラガマ内の遺骨収集を本格的に行なった。

昭和32年頃
アブチラガマの遺骨はカマスに入れ南部の「魂魄の塔」に運んだ。



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