title

[image]
南風原の戦没者

[image]
南風原村民の戦死状況

南風原村民の県内での戦死者は3,505名。
戦死率は約44%であり、およそ2人に1人は亡くなっている。
中南部の市町村と比較すると戦死率は高い方になる。
戦死者が一番多い所は砲弾の雨の中を避難した南部(摩文仁方面が約75%、
次に多いのが地元南風原村内の約18%である。
戦死時期は6月1日~23日が62%と最も高く、次に高いのが5円1日~31日の21%である。
6月23日以後でも6%が戦していることにも注目したい。
年齢別戦死率では60歳以上のお年寄りが最も高く、
次に高いのは正規兵・防衛隊・義勇隊にとられた20~59歳の男子と続く。
10歳未満では年齢が低いほど戦死率が高くなっている。
こうした戦死地・戦死時期・戦死年齢の特徴は、住民を巻き込んだ地上戦闘の実態をあらわしている。

[image]
0162
[image]
0163
[image]


[image]
[image]

0152
[image]
戦場になった南風原
1945(昭和20)年3日23日以降、南風原にも空襲と艦砲射撃が降り注ぎ、家屋が次々と焼失していった。
村民は避難壕に隠れていたが、直撃を受け犠牲者が続出した。
4月9日、村から旧玉城村字親慶原に「立ち退き」命令が出された。
しかし、すでに戦場と化していたため、「立ち退き」命令が伝わったのは少なかった。
「立ち退き」した村民は砲弾の雨の中、夜になって親慶原へ向かう。
歩けないお年寄りは村に残った。
5月になると、南風原には中部方面の避幾民が殺到するようになった。
村民も村にいたら危ないということで玉城・東風平・糸満方面に避難する。
ここでも歩けないお年寄りは村に残った。
避難途中、米軍の砲弾は容赦なく降り注ぎ、道路には死体が横たわっている。
死と隣あわせの避難であった。
南風原の一日橋・宇平(山川)橋・兼城十字路・照屋十字路は死体の山であった。
これらは戦後、「死の橋」「死の十字路」と形容された。

[image]
南風原国民学校の学童疎開地

前のページへ     このページの先頭へ     次のページへ